Columbus Blog

新発見日記。ただし発見の意味は広義・・・感想・愚痴もときどき・・・

宝島と海辺のカフカ

2007.08.29 Wednesday 13:36
宝島といっしょに買ったのが村上春樹の「海辺のカフカ」。
とくに双方に関連はなく、書店の同じような場所にあったからだが、宝島が上の棚にひっそりしていたのに比べ、カフカのほうは平積みで只今キャンペーン中。海外でも絶賛、とかある。
村上春樹は前にデビューして話題を呼んだとき、いわゆる若者向きのうわついた小説だろうと思い、ほとんど無視していたのだが、何年か前に、これも「教養」のためか何気なく「ノルウェイの森」を手に取ったことがある。
読んでみて、驚いた。こんな世界があったのかと。
そしてまた、そこに、久々に文章の卓越した作家を発見した。とくに、比喩・暗喩・擬人化がうまい。これはわたしにとって康成や太宰など以来の評価といっていい。
それで当時「ねじまき鳥クロニクル」やいろいろ関連作を読んだことがあったが、「海辺のカフカ」は最新作なのかわからないが未読だったので買ってみた。それがちょうど宝島を読もうとしたときとたまたま一致していたわけである。
ところが・・・。

たいへん比喩が上手だと書いたが、文中の主人公の言葉を「きみは(短い)あいづちの天才だね」とかいうようなくだりがある。これは作家がみずからを褒めた言葉のようでおかしかった。あいづちをうつのは物語中の主人公だが、その言葉を考えたのは作家であるから。
ほかにもいくつも巧みな比喩を随所に見つけた。
そのなかでなるほどと思ったのが、AとBの関係はまるで海賊とラム酒のような云々・・・というもの。

わたしはそのとき、村上春樹は、この小説を手がけたときに、わたしと同様に「宝島」を直前に読んでいた、とまでは言わないが、なにか想起していたのではないかと思った。
「宝島」には、海賊と酒、とくにラム酒の話がふんだんにちりばめられていたからである。



独特の世界が楽しめます
海辺のカフカ(上)
新潮文庫
村上 春樹 (著)
(「海辺のカフカ」自体は過去の「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」などの世界から一向に進化していないように思う。2002年作で、2005年に英語版Kafka on the Shoreが刊行、アメリカ、イギリスでベストセラーになったとか)
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宝島

2007.08.23 Thursday 10:50
書籍は、生きている限り無限に増えていく。(死後の世界は分からないが)
そんな中で、残された生が短くなっている、あるいはほとんどないのかも知れないのに、ここ数日FF-XIIの攻略本などを夜更かしして読んでたりする。

書店に行くと、本来、青少年の時代に嗜んでおくべき「教養」としての小説をいかに読んでいないかを思い知り、人知れず赤面することもある。昔は、いまほど多くは世に出されていなかったにもかかわらずである。

わたしはそれでも娘よりは読んでいるのではないかと思っているが、「趣味は読書です」などという方々にはとうてい及ばない。不朽の名作と言われるものの半数も読んでいないのではないだろうか。たとえば、ジイドの狭き門は辛うじて手にしたが、スタンダールの赤と黒はいまだに読んでいない。英国人に軽蔑されるに違いないがハムレットなどシェイクスピアは皆無である。

そんな思いをもって、書店で、現代はあまり人気のないそれらの本が並んだコーナーを見ていると、スティーヴンソンの「宝島」というのが見つかった。
これも古典の名著と呼ばれているのだが、やはり読んでいないんだなあ。
いまさらとは思ったが、昔の自分が読んだとしたらどう思っただろうかということを想像するのも面白いと思って買ってみた。すると・・・。

宝の島などというと、安穏な現代に毒されたわたしなどは、どうしてもインディジョーンズの映画にあるようなエンターティメント性を想像してしまう。ところが、この小説での宝探しの冒険とは、トリックや魔物との戦いというより海賊とのとくに心理的な戦いなのだった。
現代のRPG的要素はまったくない、というより、人間のあらゆる性質、よきにつけあしきにつけ、様ざまな性癖を持ち合わせた真にユニークな精神をもった海賊のほうが、ほんとうの主人公と呼べる人間ドラマだった。

これは少年がドキドキして読む冒険小説というより、大人いや人間の狡猾さ、浅ましさ、小心、大胆、無謀、暴力性、卑屈、残忍、明朗、快活、したたかさなどなどあらゆる感情面を学ぶためのかっこうの教本なのではないか。

なるほど、子供向けといわれる宝島でさえこうなのだから、昔の文学青年・文学少女というのは早熟になるのは当たり前だな。いまは、現実に存在しないキメラがどうのとか、空とぶアイテムが見つからない、などとファンタジーはあってもいささか幼稚といわれても仕方がない。まして、老域に達しようとするわたしなどいまもって攻略本であるから、情けない話ではある。

しかし、漱石も藤村もパールバックもモーパッサンも、思えばみんな暗いねえ。執拗に悩んでいるなあ。辛い時代だったんだろうなあと、いまがまるで辛くない、バラ色の時代なのだなどと言ってみることにしよう。とてもそうじゃないのだけどね。

(あっ、宝島は暗くはないしそれなりに楽しめたな。なるほどね。人間描写が卓越した作家というべきか。翻訳者も昔のほうが上手だったような気がする。注釈などついていたのをすっかり忘れていた。久し振りに見た。でもあれは、巻末にまとめないでそれぞれのページの下のほうに記してほしいね。読みたいがいちいち後を見るのはめんどくさい。それにしても注釈をしない現代の翻訳者は横着だな)
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中島らも

2007.08.07 Tuesday 15:30
中島らもという作家がいる。
つい先年他界したのだが、昔はわたしと同業のコピーライターだった。
氏が著名人になってからあるとき夕刊フジかなにかの連載を担当していたとき、紙上で、わたしのつくった広告のキャッチフレーズを褒めてくれたことがあった。

それは、オーストラリアの航空会社の仕事で社の提携先のオーストラリアの広告代理店経由で依頼が来たものだった。
わずか1晩という短時間しか考える時間がなかったが、制作局長から社を代表してと言いくるめられて担当した。
当時わたしとしては脂ののった時期だったので自分でもまあまあと思うのを2案作って翌朝プレゼンし、どちらも好評でそのいっぽうの案でわずか4.5千万程度のキャンペーン規模だったが雑誌広告が展開された。
それを中島らもに偶然見られて、軽く「いいね」とかそんな程度だったと思うが書いてもらったわけである。

純粋な気持ちで単純に礼をしたいとずっと思っていたのだが、とくに氏とは面識はない。有名人に取り入るような感じになるのはイヤなので、機会があればいつかはと思っていたら訃報を聞いた。
やれやれやはり手紙でも書いておけばよかったかなと思っていたところ、先日、著作を書店で見かけたので、あまり興味はなかったのだが、供養にと思ってひとつ買って読んでみた。

灘高校を8番で入学したがエリート大学には進学できず、けっこう酒や薬物に手をつけたりして荒唐無稽な生活をし、身体が蝕まれているようなことが書いてある。
さかんに何回か直木賞受賞寸前までいったことが愚痴なのか未練なのか記されていたが、審査員の渡辺淳一の好みのものを書けといわれればカンタンだがそんなことはしたくないのだ、そんな主旨のことが書かれていた。

その意気やよし、と思った。
音楽関係などちょっとわたしとは趣味のあわない面もあるが、なかなか面白いな。
生前にやはりコンタクトとっていればよかったかなと少し後悔もしながら、別の著作も読んでみようかなと思っていたら・・・。
池波正太郎の悪口が書かれていた。

池波正太郎は昨今、気に入っていたので少々不愉快になった。
それからしばらくして、なぜかわたしは中島らもの著作も、池波正太郎の小説もどちらも読む気になれなくなってしまった。
悪口とは、そんな効果があるのだな。
メインサイトで割腹自殺を図った著名作家の悪口を書いてしまったが、もう人の悪口を言うのはやめようと思った。

ちなみに中島らもに褒めてもらった広告フレーズは、以下である。
航空会社の韓国デスティネーションのキャンペーンフレーズであるが、当時、まだわたしは韓国に行ったことがなかった。

不思議だなあ。初めて来たのに懐かしい。
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大人の情景

2005.08.09 Tuesday 23:11
もう10年以上も前の話になろうか。
ひとまわりちがう社の先輩の男女2人とわたしの3人で
酒を飲んだときのこと。
好きな作家の話になり、
先輩2人がさかんに池波正太郎はいいねえ、と言う。
わたしはほとんど読んだことがないと答えると、
「お前はダメだ」
というような目をして、それから先輩同士の会話が進んだ。
わたしはふうんと2人の話を聞いていたが
まあ大人の会話というものだったろうか。

それが先日、友人のH氏と会ったとき、
ちょうど読み終わったからと言って貸してくれたのが
池波正太郎の「食卓の情景」という本だった。
ちなみにH氏はわたしより4歳ほど年下である。



これぞ、エッセーの真髄!
食卓の情景
新潮文庫
池波 正太郎 (著)


もう一冊、子連れ狼の単行本も貸してもらった。
その漫画はあっという間に読み終えたが、なかなか面白く、
昔読んだときと比べても寸分の色あせた感じがない。

そして、池波正太郎だが、これが実にまたいい。

わたしも食いしん坊であるからもあるが、
ひと時代昔とはいえ、こんなにもぜいたくな食を
彼が楽しんでいたとは実にうらやましい話である。

しかし、きょう取り上げたのは食べ物の話ではない。

池波の文章の卓越さもさることながら、
何気ない日常の1シーンを描写する中にも
枯れた味わいが行間に溢れにじみ出ている。
そこには人生の先達としての深い洞察と
さりげない示唆が伺われる。
ひとつひとつが頷き返す内容であり、
ようやくこれで、諸先輩と話ができる年齢になったのか
と感慨深いものがあった。

その同じ本のある章で、氏の鬼平犯科帳の中の下りで、
駿河の興津(いまは静岡市清水区となっているらしいが)から
薩た(さった=たは土へんに垂)峠という
親知らず子知らずの名所を越えて・・・という文章を見つけた。

わたしはそんな地名は知らなかったのだが、
この薩たという言葉はつい最近、
わたし自身のWEBコンテンツで書いた記憶がある。

それは地元利根町の名刹、来見寺にある道了堂というお堂の話で、
そこを開基したのが道了薩たという人物なのである。
道了薩たは、神奈川県南足柄市にある曹洞宗最乗寺の守護神でもあり、
寺を守護することを誓って天狗となり、
白狐に乗って飛び去ったという伝説があるという。

峠が先か人物が先か、定かではないが、
こうしたシンクロニシティも不思議といえば不思議だ。

でも、H氏はわたしのWEBを時々見ていてくれているようで、
もしかするとわざわざわたしのために
あの本を持ってきてくれたのかも知れないと思った。

本を借りたとき、ちょうどわたしも読み終えた本があったので
彼に渡したのだが、
それはそんな大人の本とはまったくちがう推理小説だった。

きょう夕方、地元福木の道祖神探索中、携帯にH氏から電話があり、
明日、柏で一杯、飲ろう、と約束した。
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擬狸化?

2005.03.03 Thursday 19:26
タヌキに人間の言葉を話させたりするのは擬人化というのだろうが、
このわたしがタヌポンと称してタヌキの振る舞いをするのは
擬人化ならぬ擬狸化と呼ぶべきものであろうか。

とても人間をだますことができない人のいい
(これもヘンか?人柄?タヌキ柄)タヌキのつもりでいるが、
ことわたしの場合、だますという唯一の能力すら持ち合わせていない
無能な動物というのが真相だろうか。

擬狸化が進行したせいか、
つい先日、「狸囃子が化けた音」と題したコンテンツを公開したが
そのなかで亡父のことを鬼畜などと最初、記してしまった。
鬼籍に入ったとすべきなのにそのときなぜか松本清張の小説のことを
考えながら書いていたせいかそうなってしまった。

息子に鬼畜と言われるようではわが父も情けないが、
なんとなく誤りに気づいたのがコンテンツをUPした翌朝、
家を出た直後で、なんとその夜、帰宅時にそれを修正するのを失念し、
さらにもう一日、哀れな父は鬼畜のままとなってしまった。

これではお擬狸でも孝行息子とは言えない恥ずかしい話である。



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武江年表と甲子夜話

2004.11.26 Friday 23:19
狸囃子の原点とも言える「本所七不思議」が載っているという
岡崎柾男著の「両国・錦糸町むかし話」。
中古でしかもう手に入らない本なのだろうか、
amazonのマーケットプレイスで先日、見つけて注文した。

読んでみるとその本所七不思議にも出典があり、
「武江年表」(ぶこうねんぴょう)という本に
「本所のばけ太鼓」として出ているという。
ぶこうとは武蔵国の江戸という意味である。

「武江年表」を調べてみると、
それは徳川幕府為政下の江戸の地理、風俗、巷談、異聞など
百般にわたる見聞記という。
斎藤月岑(げっしん)という人物の著作で、
江戸時代の考証・研究に欠かせないものという。
今井金吾という方が校訂した文庫本が筑摩書房から出ている。
素晴らしい本らしいので
これも上中下のうちとりあえず上巻だけ買ってみた。

わたしは気に入った本があると
一気に全巻、購入してしまうことが多いのだが、今回は上巻だけとした。
というのは、狸囃子の記述が
3巻のうちどの巻に記載されているかわからないことと、
岡崎柾男氏がもうひとつ、これまた興味深い「甲子夜話」(かっしやわ)
という本も紹介していたからだ。

「甲子夜話」は江戸時代の平戸藩の藩主、松浦静山が書いた、
278巻に及ぶ随筆集である。
これにも静山自らが狸囃子の音を探ろうと家臣に調べさせたことが
記述されているのである。

この本も電子書籍で手に入れることができるのだが
なんといっても大部で全6巻。そのひとつが奇しくも、
「武江年表」1巻の値段と同じ1,470円である。
そして、これもどの巻に「狸囃子」が記載されているか不明である。
全部そろえるには1,470円×(3+6)=13,230円も必要で、
さらにわたしは別にいま、1万円もする図鑑を2冊買いたいなあ、
と思っているところである。
その上、新しいパソコンも欲しい、と何かとたいへんなのである。

しかしながら、推理小説や雑誌以外のこういった史料本を購入したい
と思うことがこれまであまりなかった。
昔、勤務先にいた女性のご主人が蔵書を売却しようとしたとき、
高く売れる本というのは
彼女が見て何の興味もない「がらくたのような本」ばかりで、
装丁の美しい新刊書や愛好していた文庫本などは
まさに二束三文に評価され、売るのがばかばかしくなったと言っていた。
目利きが値を付ける本というのが、
興味のない人には「がらくたのような本」に見える
「甲子夜話」とか「武江年表」というような史料となる書籍なのだろうと
いまさらながらに思う。

この年になるまでそんな本に興味をもつことがあまりにも少なすぎた。
興味を感ずる才能が希薄だったというしかない。
大学時代、いかにまともに勉強していなかったことだろうか。
もっと早くに、こうした「素朴な疑問」を多く抱いて、
これを調べようとしていればおのずから学問が楽しかっただろうに・・・
と悔やまれる。

しかしながら、いまやっとその片鱗でもわかりかけてきたのはありがたい。
すでに知っていたことだが「武江年表」上巻を少し読み始めると、
オランダ人ヤン・ヨーステンが来日して住んだところから
八重洲の地名が生まれたことなどが記載されている。
出典はこれだったのかととても感慨深いものがある。

懐具合と相談しながら気長に読んでいってみよう。
狸囃子の記述が見つかれば「甲子夜話」の記述と合わせて
狸囃子について」の項目で紹介しようと思っている。



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