三津田信三のホラー・ミステリー「厭魅の如き憑くもの」を読んでいる。
途中だが前半まではなかなかに恐い小説である。とくに巫女の少女が祓い所に赴くときに、後を振り返ると魔物が取り付くので振り返ることを禁じられるが、背後の何かがいいよいよその不気味さを強くしていく叙述のくだりは圧巻である。
「背後」が恐いホラーはほんとうに怖い。
三津田信三のホラーは、都会ではなく古い神社や山村などをその舞台としている。
わたしもそうした背景になぜか惹かれる。
神社や史跡などで有名な怪異な話は平将門の首塚等があるが、むしろそんな人口に膾炙したものより、地方の山村にある名もない道祖神などの不気味な雰囲気にたまらなく惹かれる。
☆厭魅の如き憑くもの
ミステリー・リーグ
三津田 信三 (著)
価格: ¥1,995 (税込)
惹かれるとは、まさに「引」かれる、のだ。
その辺の気持を三津田は心得ているのか、そのことを「山の厭魅に呼ばれる」という表現をしている。
そう、まさに呼び寄せられる、引っ張られるような感じで、怪しげな林の中や妖草に囲まれた隘路に入っていってしまうのだ。
わたしがなぜ姉妹サイトで地域紹介などのコンテンツをつくったのかなんとなく分かるような気がする。
それをつくるきっかけとなったのは、いま考えてみると、取手市で偶然見かけた
面足神社のなんとも得体の知れない不気味な雰囲気だったかも知れない。
そして、利根町にもそれを求め、
早尾天神社奥の宮や
龍ヶ崎南高校近隣にある不思議な塚の中に吸い込まれるように入っていった。
学校や公民館、イベント等、賑やかな人の集まる類の地域紹介にはいまひとつ食指が動かないのはそういう理由であろう。また神社・仏閣を訪問するといっても人で賑わう明治神宮や浅草寺にあまり魅力を感じないのもそういうことである。
そういえばいま住んでいる地元の利根町は柳田國男の第二の故郷という。
遠野物語にあるように彼もそうした伝奇的なものに惹かれた作家といえよう。
わたしのメインテーマの狸囃子にしても、泉鏡花が同名の題の小話を記しており、高野聖などの著作のように彼もまたそういう傾向の作家である。
それらの作品の中は奇怪な話で満ち溢れている。
たとえば三津田の小説のなかでも、冒険にでかけた男の子が神隠しにあったように消えてしまうくだりがある。
しかし、そういったことは、現実生活において身近に体験することはまずない。
三津田自身もおそらくそういうところを訪ねて行くことが好きな作家だろうが、そんな地域を取材してまわってはいても、ある日、彼自身が魔物に引き寄せられて神隠しに遭うようなことなどはないだろう。
もしそうだったら、現実に本が出版できていないわけだし・・・。
また鏡花や柳田國男にしても、ある日、山里を訪問中に忽然と消えた、という晩年だったとは聞いていない。
不気味な雰囲気も所詮、イメージに過ぎなく、魔物などは無論いるはずもなく、作家が作り上げた架空の世界ということになるのだろうか。
「それは彼らは有名人だから」
そう、もしかすると、著名な作家などは消失してしまうと大事件・ニュースになってしまうので、そこまでの災難には遭わないようになっているのではないだろうか、などと考えてみる。
でも、無名の一般人、陰の薄い人などが、そんな探索を始めるとしたら・・・。
人知れず魔物は人を襲う・・・。
わたしならある日、
鎌倉街道で見つけた秘密の祠に入りこんでそのまま消失してしまうかも。本当に魔物がいたりするのかも知れない。
いままでにも胸の鼓動が高まるときがいくどかあった。昔から臆病なくせに、なぜわたしはそこに突き進んでしまうのだろうと思うことがある。
そんな異次元の奥を今後もさらに求めるか。
それとも有名にでもなって遭遇を回避するか。
ちなみに
取手の面足神社はどんどん開発整備されて最近も写真のような「観光的」登り階段や見晴台のベンチなどが設えられた。
こうなってしまっては、もう昔の「わたしを呼び込む」厭魅は、そこにはいない。
その中にはやはり「もののけ」が潜むところへ迷い込んで
「神隠し」にあったりする人もいるんでしょうねぇ〜〜〜
私自身は、たぬきに化かされた経験もなく、霊感がある方でもないので
そんなミステリアスな経験はありませんが、怖いものみたさの関心だけは
人一倍高いほうです。(^。^;)