舌つづみに舌打ち
以前に秋葉原の読み方について雑文を書いたが、
最近、もうひとつ耳障りな言葉をテレビなどでよく耳にする。
それは、「舌つづみ」という言葉である。
いつの頃からかテレビのアナウンサーが、なんとかのひとつおぼえのように、
一斉にこのように唱えだした。(局で、そう言うように指導しているのだろうか?)
それはあたかも「舌づつみ」はまちがいで、
舌が打つ鼓(つづみ)だから「舌つづみ」が正しいのである、とでも言っているようだ。
もしそんな理由だとしたら、愚か者の仕業というほかない。
確かに語源というか、舌が打つ鼓であり、漢字では舌鼓と書く。
だが、読み方は、断じて「舌つづみ」ではなく「舌づつみ」なのである。
それには、「勉強嫌い」を「勉強きらい」とは読まないのと同様の明らかな理由がある。
それを知らないで言いづらい「舌つづみ」を連呼しているのなら、滑稽の極みである。
日本語には、もともと2つの言葉が重なったときに、後ろのほうの濁音は前に移動する、
という古来からの発音形態があるのだ。
この舌づつみがその典型的な例である。(実はほかの例は思いつかないが)
このことは、どの言語学者の著作だったか、
また、小・中学校、高校時代のいつだったかは定かではないが、
国語の時間で習ったことことだけははっきりと覚えている。
このほうが格段に言いやすく、発音としては自然な流れなのだ。
これは、「連濁」という、日本語を覚えようとする外国人には理解しがたい
不規則な法則にも関連している。
(中略 全文は つれづれ道草第20段に掲載しました)
ここのところ、あまりに「舌つづみ」と言う人が増えて、またかと舌打ちするほどである。
そんななかで、何を誤解しているのか「どちらでも正しい」なんていう輩も出てきたらしい。
自分は寛大だから舌づつみも正しいことにしてやろう、なんていうところか。
あきれた話だが、言いづらくともそれが浸透していけば、
いつしか「正統派」となってしまうのかも知れない。
まてよ。
そうすると、いちばん最初、鼓がこの世に誕生した直後に、舌鼓の言葉を創り出した人は、
「したつづみ」と言っていたのかも知れない。
そうすると、わたしのほうが邪道なのか。(笑)
今さらすみません。ライマンの法則が優先されている例だと思います。どちらも間違ってないです。
>通りすがりさん
そうです。どちらも正しいのですが、ちょっと興奮しました(笑)
素直にいえば舌づつみでいいのに、あたかもそれがまちがいであるかのように、昨今、アナウンサー諸氏がつづみを連発しているのが滑稽だなあとおもっていました。そこにはライマンの法則には無知で、ただ「舌の鼓が語源だから」だけしか気づいていないようなふしがみられませんか?
どちらも知っていたらいいやすいづつみを使うのが自然だとわたしはおもうわけです。
三省堂の辞書(昭和42年発行)には「したつづみ」のみの記載。
学研の辞書(昭和57年発行)には「したつづみ したづつみともいう」という記載。
旺文社の辞書(昭和61年発行)では「したつづみ したづつみと言う人も多い」という記載。
どれも「したつづみ」が優先記述という点では共通となっています。
「舌包み」という誤解を避けるため、あえて「したつづみ」が使われてきたという歴史があるのではないでしょうか?
>Pさん、
実は辞書がそうなっていることは知っているのです。
でも、昔・・・年がばれますが、40年前は辞書はそうではなかったと思います。文部省・・・現在のもんか省はころころ「法則」を変えたりします。これもその一例かも知れません。
わたしが国語の教科書でならったときは、たしか金田一京介という教授の論文だったと記憶しています。当時の辞書の監修はほとんどこの方がからんでいましたね。
で、そのことはともかく、言葉の「音楽的な流れ」というか、読み方の自然さという点で、舌鼓はやはりしたづつみがスムーズと思うのです。辞書はいまはそうでもまた何年かすると変わったりしますよ。
「舌包み」という誤解を避けるため・・・というご説は初耳ですが、したづつみはその直後に打つが必ず付くので、舌包みというそんな誤解を生じること事態、おかしいかなとも思います。
したづつみと言う人も多い・・というのは語法をよく研究していない若い監修者という気がしてなりません。
今更ながら「したつづみが」正しいそうです。江戸時代から使われてるそうですよ。
金田一さんは何を勉強してたんでしょうね。
勉強家さん、
「正しいそうです」「使われてるそうです」
等々はぜひ出典を明記してください。
この舌鼓の論点では、「〜だそうです」の意見はあまり受け付けたくありません。
わたしは金田一氏を全面的に支持しているわけではありませんが、自分の発音ではしたづつみが自然と思っています。正しい・正しくない、は、ころころ法則を変えるその時代の文科省・学者等が適当に決めていることに過ぎません。
勉強家さんのご意見は、もはやわたしがこのブログに記した論点とは別次元のことですね。
正当性の論拠を最低でも江戸時代との連続性から調べてくれていればいんだけど、論拠が近代以降の一時的なものでしかないとか、近視眼的でとってつけたようなものが多すぎる。
学者と言っても千差万別で本当の意味での国語学者がいないのが原因か。本来なら国が国語学者を集めて、古典文献から何から調査し、連濁のような特殊なものまで含めて総合したものを異論まで含めて示しておくのが筋。
トラックバック機能は終了しました。